保井さんアイキャッチ

保井俊之(やすいとしゆき)さんは現在、国家公務員としてワシントンD.C.に勤務しながら、慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科(SDM)で特別招聘教授を務め、さらに現在、同研究科附属SDM研究所で上席研究員として研究及び教育に当たる“2枚目の名刺ホルダー”だ。

いや、それだけではない。『無意識と対話する方法』(前野隆司共著,ワニブックス,2017)など、自身の研究をもとに複数の著書を上梓する著者としての“名刺”をも持っている。

研究テーマも、システム思考、デザイン思考、社会システム論、地域と社会のイノベーション、地域活性化と幅広く、慶應SDMのソーシャルイノベーションのためのワークショップ等で4000人以上の参加者をファシリテーションしたファシリテーターでもある。

国家公務員の仕事はハードワークであることが知られるが、そんな激務の合間を縫って、研究や教育、ワークショップ、執筆活動をする理由は何なのか。

東京からワシントンに電話をつなぎ、話を聞いた。

今回は、保井さんが研究者あるいは教育者という“2枚目の名刺”を持つまでの軌跡を辿ってみる。

研究者になろうと思っていた学生時代

保井さんが2枚目の名刺を持つことになった、そのいきさつを説明するためには、大学時代から遡らなければならない。

1985年に中央省庁に入省して以来、30年以上も国家公務員として公務にあたっているが、学生時代には研究者を目指していたという。

保井さん(以下、敬称略):「学生時代、研究者になるつもりで国際関係論を勉強していました。*1リベラル・アーツの流れを汲む教養学科に所属し、特定の学問の枠に留まらず、分野を横断するような学び方をしていたのですが、経済学や政治学のように、一つの学問領域を深く極められないのではという不安があったのです。根なし草になるのでは…という寂しさが、あるときふと沸いてきました」

大正・昭和初期にはリベラル・アーツを旧制高校で学び、大学で専門を身に付けることが体系化されていたが、第二次世界大戦後の学制改革により、リベラル・アーツは新制大学の前期2年の教養課程に吸収され、後期2年間は専門分野に特化した教育が行われるようになっていた。

ところが保井さんが進学した東京大学教養学科だけは、一貫してリベラル・アーツを教え、さらには世界や地域で起きている物事を縦割りのディシプリン(学問分野)で捉えるのではなく、横割りで、複眼的に見ていくような教育を行っていたのだ。

時は冷戦の終わりが近づいた1980年代。国際情勢への関心とともに、国際関係論や国際関係史に面白さを見出した大学3年生の保井さんは、二人の教授が共同で行っていたゼミに参加する。

経済統計学を専門とする中村隆英教授と政治学者の佐藤誠三郎教授。この二人の教授の教えが、保井さんのSDM研究の礎を築くことになる。

中村教授からは、イデオロギーやドグマに語らせるのではなく、定量的なエヴィデンスを積み上げることで何か別の世界が見えてくるのだということを、佐藤教授からは事実を冷徹に分析する国際政治経済学の学び方を徹底的に教わった。

毎週10冊ほどの課題図書を読み、その内容を翌週まとめて発表する。そんな厳しいゼミに約1年半所属した。気が付けばゼミ生はどんどん減っていき、一人だけになっていたそうだ。

 

一つのディシプリンを極めるための公務員試験の勉強

ではなぜそれほどまでに勉学に打ち込み、研究者になることを志していた保井さんが、公務員を受けることになったのだろうか———。

友人に誘われたことが直接的なきっかけにはなっているが、「何か一つのディシプリンを極めたい」という思いがあったのだという。

その裏には、幅広い学問領域を横断しながら物事を論じる立場になるためには、自分がしっかりとしたディシプリンを何か1つ持っていないと、疑似評論家みたいになってしまうのではないかという不安があった。

保井:「虫の目にもなったことがないのに、鳥の目になどなれない。一つの学問領域を深いところまで極めてこそ、横つながりのディシプリンを応用できるのではないかと思ったのです」

こうして経済学を学ぶことにしたのだが、経済学を勉強するために、公務員の試験勉強をすることがうってつけだったのだという。

保井:「経済学も勉強してみると面白く、幸いなことに、公務員試験に受かることができました」

 

公務に没頭していた20〜30代

たまたま受験した公務員試験。就職しようか、それとも研究者として学問を続けようかと悩みながらも、官庁訪問をしていく中で、行政の仕事に面白さを見出した。

保井:「役所では常に問題解決を迫られていました。それもマニュアルに従って解決できるものはほとんどなく、応用問題から始まる。様々な領域の問題が複雑に絡み合って、誰も解けなかったような社会の難題が山のように霞ヶ関に持ち込まれるのです」

高度でディスクレッショナリーな問題解決に携わることができる。それも、20代前半の若者が。これは面白そうだと入省したのだ。

保井:「何年か後に研究者になればいいという思いで就職しましたが、物理的にも体力的にも時間的にも、本業に没入しなければならなくなってしまい、24時間ほとんど自由時間がありませんでした」

4週5休の時代。平日は4~5時間の睡眠時間を除くほとんどの時間を仕事に費やした。「終電で帰ることができたら嬉しい」という感覚だったという。

 

毎日同じ場所で同じ仲間と過ごすことが、問題解決のネックになる

保井:30代半ば、子どもが幼稚園や小学校にあがったくらいの頃に、何かがおかしいのではないだろうかと気が付きました。自分も仕事の仲間たちも仕事に没入するあまり、正しく問題解決ができなくなってしまっているのではないのだろうか…と」

問題解決は複雑な数式に似ていて、問題自体が絡み合っている。一筋縄では解決できない問題に取り組むためには、割り算、掛け算、いろんな要素を組み合わせて因数分解しなければならない。

しかし、ほとんどの時間を同じ職場で、同じ仲間たちと過ごしていると、連帯感と引き換えに、因数分解の因数が極端に少なくなる。

危機感を抱いた保井さんは、日曜日を使い、子どもの少年サッカーのコーチを始めることにする。

保井:「因数分解をするための因数をたくさん持つためには、他のディシプリンに行かなければならないと思ったのですが、時間がありませんでした。それで何かできることからと始めたのが、子どもたちのサッカーコーチだったのです」

サッカーをする子どもたち、その子たちの親、他の指導者…フィールドの異なる世界にいる人たちとの接点を持ち始めたことで、問題解決の因数が確実に増えた。

保井:「縦割りのディシプリンで問題に対処するのではなく、もっと複眼的なものの見方はできないものか。そのように物事を見ていかなければ、複雑な問題は解決しないのではないだろうか。学生の頃に考えていたことと、その時の状況がカチッと嵌りました」

皆がいくら優秀でも、365日24時間同じ環境下で同じ境遇の人たちと一緒にいたのでは、複雑な問題を解くことはできないだろう。そうもやもやと考えているうちに、問題解決の手法を学問的に捉え直すきっかけとなる出来事が起こる。

2001911日のアメリカ同時多発テロ。アメリカに赴任していた保井さんは、その現場に居合わせた———。

 

*1様々な学問領域を総合的に学ぶことで、幅広い知識を身につけ、豊富な知識に基づいた想像的な発想を可能にする教育のこと。

>>後編(「仕事とシステム×デザイン思考の研究・教育活動。2枚の名刺に懸ける想い」)につづく

※このインタビューおよび執筆、慶應SDMの研究・教育活動は無報酬で行っており、意見にわたる部分は保井さんの私見です。