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「楕円球の啓示とパラスポーツ」

奇をてらった小説のタイトル、ではない。もっとも、関連性の低そうなこの2つのワードに接点を見出すには、推理小説の主人公ばりの推理力が必要だろう。

現在25歳の小林忠広(こばやしただひろ)さんは、慶應義塾大学の大学院に籍を置きながら、日本のスポーツ教育をより良いものに変容させることを目的としたNPO法人スポーツコーチング・イニシアチブの代表を務めている。

NPO法人二枚目の名刺のメンバーでもある彼が持つもうひとつの顔が、2020年に開催される国際大会を見据えて推進する「パラスポーツ・プロジェクト」のプロジェクトデザイナーとしての顔だ。

慶應義塾幼稚舎で小学5年生のときにラグビーを始め、慶應義塾高校時代にはキャプテンとして全国大会にも出場した。ここまで来たら、大学進学後も迷わずラグビー部に入ると誰もが思うはずだ。

しかし、ラグビーボール(楕円球)がどこに弾んでいくか分からないように、彼の人生もまた、思わぬ弾み方をすることになる。

「楕円球の啓示とパラスポーツ」
その2つのワードがいかにして結び付いたのか、その謎解きを始めていこう。

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慶應ラグビー部キャプテンと障がい者スポーツとの出会い

――ラグビーで花園に、それもキャプテンとして出場とはすごいですね。
小林さん(以下、敬称略):小学生のときから全国大会に行くのが夢で、そのために自分の人生を捧げようと本気で思っていました。

――夢を実現して、それからは? 大学進学後はラグビーを続けなかったんですよね?

小林:ええ。全国大会が終わって、抜け殻のようになっていたときに、ちょうど高校のスタディツアーでカンボジアに行ったんです。観光ができればいいかな、くらいのモチベーションで参加したのですが、そこで衝撃を受けました。

スラム街のある家を訪ねたら、そこはお母さんも、子ども2人もエイズで、その原因となったお父さんは蒸発。「稼ぎがないから死ぬしかない」と言って泣き出されたとき、自分はどうしていいのか分からなかったんです。それまでずっと幸せにスポーツをやってきたけど、そんな僕にできるのは片道1時間かかる水汲みの手伝いくらいしかないと気付かされて……。

――かなりのショックを受けた?

小林:それだけじゃないんです。カンボジアから帰国したのが2011年の3月4日。その1週間後に東日本大震災が起こりました。

募金活動くらいしかできない自分に無力さを感じましたし、そこからは自問自答ですよ。「そもそも僕はなんのためにラグビーをやっているのか、これだけ筋力があるなら、東北に行って泥でもすくったほうがいい。部活どころじゃないんじゃないか」って。

――それで東北へ?

小林:1日だけでしたが、ボランティアに行きました。現地の方からは感謝もされましたが、「18年間生きてきて、泥をすくうことしかできないのか」と、虚しさだけが募りました。

カンボジアでのカルチャーショック、そして東北で起きた未曾有の災害。それらを前に、何もできなかった自分に対する苛立ちと虚しさ。この出来事をきっかけに、小林さんは「スポーツしかやってこなかった自分」について考えると同時に、スポーツから距離を置くようになったという。

しかしそれから間もなくして、キャプテンとして全国大会にまで出場した経歴を見込まれ、慶應義塾中等部の顧問から声がかかり、ラグビー部のコーチを務めることになった。

――そこからはまた、スポーツの世界にどっぷりと?

小林:選手からコーチへと立場を変えてからは、スポーツを通してだからこそできる社会貢献もあるんじゃないかとずっと考えていました。一途にラグビーに取り組んできた自分には到底解決できそうにない世の中の不条理。その解決策の一つに、スポーツを通じた教育もあるのではないかと思ったのです。

そして日本ラグビー協会のコーチングディレクターだった中竹竜二さんにFacebookでメッセージを送りました。「会いたいです」と。そうしたら快く受け入れてくださって。協会で中竹さんの手伝いをするようになりました。

――なかなか大胆ですね(笑)。

小林:本当に(笑)。その後、大学3年生の時にワシントンD.C.に留学したんですが、帰って来たら、ちょうど中竹さんがU-20日本代表の監督になるところで、僕も総務補佐みたいな形で代表チームに関わることになったんです。

――それからも協会の仕事を?

小林:いえ、代表活動が終わった頃、たまたまオリンピック委員会の人がコーチングのカリキュラムを作るためのスタッフを探していたので、呼ばれるがまま、そこでお手伝いを。大学で教職課程を取りながら、さらにある人材育成支援企業でインターンもやりながらだったので、かなり多忙でしたけど(笑)。

そんな小林さんに大きな転機が訪れるのは、2015年の3月。オリンピック委員会の上司の勧めで応募した国連のユースリーダーシップキャンプ(YLC)に参加したことがきっかけで、障がい者スポーツと縁ができた。

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YLCとは、国連が新たに立ち上げたUNOSDP(スポーツを通じて開発と平和に取り組む機関)が、その活動に従事する若者に施すリーダーシップ教育の一環。ワシントンD.C.に留学していたときに「国際開発と環境」という科目を選択していたことが後押しとなった。

――そういった活動には、元々興味があった?

小林:いえ。「スポーツを通じた開発と平和」ってなんだろうなという、軽い気持ちで参加しました。

――実際にキャンプに参加してみて、何かが変わった?

小林:キャンプは震災5年後の「3.11」前後を被災地である宮城県岩沼市で過ごす中で、スポーツと社会との関わり方を考えるというもので、地域復興に尽力したサッカークラブのコバルトーレ女川の人たちと話したり、障がい者スポーツを体験したりするプログラムも含まれていました。

そこで初めて幾つかの障がい者スポーツを行う中で、普段自分ができていた動きが、障がい者スポーツの中ではできなくなる。逆に、障がい者の方の技能は高く、すごいプレーができるのだということを目の当たりにしたんです。

恥ずかしいことに、自分の中に「障がい者はハンデを負っているのだ」という勝手な思い込みがあったことを知り、フィールドを変えれば誰もが同じ一人の競技者となれることを、身をもって実感しました。

自分のやるべきことは教育ではなく、スポーツを通じて様々な問題解決の糸口を探すことなんじゃないか。だったら、これまでの経験も生かせるんじゃないか、そう思ったんです。パラスポーツに対する“感度”が高まった、大きなきっかけになりましたね。

後編に続く

2020をきっかけに自分を変える、社会を変える
「パラスポーツ・プロジェクト」始動します!

「日常からほんの少し飛び出して、2020年に自分の存在を示したい」
「組織の枠を超えて、新しい社会を創る一人になりたい」

そんな思いを抱いているみなさん、「パラスポーツ・プロジェクト」に参加しませんか?

「2020年に開催された国際大会ではね……」と、
子どもや孫に誇れる未来を一緒に創りましょう!

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吉田 治良(よしだ・じろう)

吉田 治良(よしだ・じろう)

株式会社日本スポーツ企画出版社で、「サッカーダイジェスト」や「ワールドサッカーダイジェスト」などのサッカー媒体を統括するエディトリアル・ディレクター。1967年生まれ。