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四肢欠損の子がくれた最高の祝福①「四肢欠損の娘・Miaの誕生」

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はじめに

私こと、長濱光は、下肢欠損の娘(Mia)を抱える父親です。1枚目の名刺は、スペインでExecutive MBAを学ぶ学生であり、東京でも働くビジネスマン。弁護士を目指すカナダ人の妻ステファニーと娘のMiaとともにモントリオールで暮らしています。そんな私たちが下肢欠損の娘を授かって感じたことの一つに、「世界と日本における四肢欠損の方の暮らしやすさの違い」がありました。

内閣府によると、日本に14万2000人いる(845人に1人)と言われている四肢欠損。身体障害者は360万人(33人に一人)います。でも街で見かけることは、あまりないのではないでしょうか。

「障害を持つ人が街にいることは当たり前のことなのに…」
「四肢欠損の人に平等な機会のある社会を作りたい」

こうした想いをきっかけに、私たち夫婦は、日本で四肢欠損の人々をサポートするプロジェクトを立ち上げたいと思うようになりました。

この連載では、私たちがプロジェクトを立ち上げるまでの過程と、そこで見聞きしたこと、体験したことを、私たちの視点で発信していきます。

そう、私たちの「2枚目の名刺」の始点として。

夫婦のストーリー

2012年7月にタイのバンコクでM&Aアドバイザリーの仕事をしているときに、私は素敵な女性と出会いました。ステファニーという名の彼女は、2012年1月から7月までカナダのHECモントリオール大学から日本の大学へ留学する予定でしたが、2011年に発生した東北地震による影響で留学先をタイへと変え、バンコクにあるチュラロンコーン大学へ半年間の留学していたのです。彼女の留学中に、私たちは知り合いました。

ステファニーが半年間の留学を終える間際に、私たちは初デートしました。彼女が帰国した後も連絡を取り続け、1年後の2013年12月にペルーのリマで私は彼女にプロポーズをし、婚約。その後、ステファニーはHECモントリオール大学を卒業し、McGill大学のロー・スクールへ進学することになったため、婚約後も彼女の卒業までの3年間はタイとカナダで別々の国で住むことになりました。初めてデートしてから2年半間の遠距離恋愛を乗り越えて、2014年12月23日に東京で私たちはようやく結婚式を挙げることができたのです。

翌年2015年4月から9月までステファニーが夏休期間でタイに来て短い新婚生活を楽しんでいたときのことです。2015年6月の日曜日早朝、私がマンションのロビーで仕事をしているときに、ステファニーが、見たことのないくらい驚いたような、それでいて幸福でいっぱいの顔をして、妊娠していることを伝えてくれました。

それが、私たちが天から授かった大切な祝福の始まりでした。

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下肢欠損の子

ステファニーの妊娠が分かってから、バンコクにある病院で胎児の手足の成長の様子やダウン症の疑いがないかなど、健康状態を調べるための健診を何度か受けました。初めての妊娠ということもあり、些細な診断結果を聞くにも緊張していた記憶があります。妊娠初期の頃、産婦人科の待合室で「お腹の中にいる赤ちゃんに何か問題があったらどうする?」と冗談を交えた会話をしながら、ステファニーと私は子供を授かった喜びを分かち合い、担当の産婦人科医から、「胎児の健康に何も問題は見つからなかった。」と聞くたびに、心から安堵していたことを今でも覚えています。

胎児が17週目を迎え、いつもと変わらず同じ病院、同じ医師から定期健診を受けていたときのことです。医師がお腹をエコーで診ているとき、「いつもよりエコーの時間が長いな」とは思いながらも、私たちは胎児の心臓の鼓動をエコーを通して聴き、天から授かった小さな生命の祝福に胸が高ぶっていました。

エコーの時間は、いつも大抵10分程度でしたが、そのときは30分以上かかり、だんだん担当医の顔が強張っていくのがわかりました。お腹の中にいる赤ちゃんに何かあったのだと察し、担当医へ尋ねたところ、「先回の検診で確認した左足が、今回のエコーで見つからない。」という返答。私たちは「産婦人科部長にも確認してもらいますので、もう少し、ここで待っていて下さい。」と慌てて診察室を出ていく担当医をただ見送ることしかできませんでした。

産婦人科部長から、「先天性の四肢切断の疑いがある。妊娠初期に羊膜が破損したため、糸状になった羊膜の一部が左足に巻きつき、その結果、血液がいかなくなり、成長できず、切断されたことが考えられる。また、確率は高くはないが、その糸状の羊膜が胎児の他の部分に巻きつき、さらに四肢や頭が切断されることもある。」と聞いたとき、私たちは、その場で泣き崩れていました。お腹の赤ちゃんが感じている痛みを想像すると、本当に心が張り裂けそうな思いだったのです。「胎児の他の部位が切断される可能性も高くはないがある。堕胎をすることも選択肢の一つだ。」と勧める担当医に対して、「考えさせて下さい。」と言い、病院を出ました。

自宅へ帰宅後、すぐに別の病院でも診断を受けることにし、3日後に予約を取りましたが、その間、ステファニーは寝ることができず、ただ泣き崩れていました。

私たちは四肢欠損の赤ちゃんを授かったことが悲しくて泣いていたのではありません。さらに赤ちゃんの体の部位が切断される可能性があることと、その痛み、また左足がない状態で生まれたあとに、赤ちゃんが将来経験するかもしれない辛さを想像すると、涙を止めることができなかったのです。

それから3日後に検診してくれた3人目の産婦人科医は、「羊膜による左足の切断ではない。何かしらの理由で左足が成長できなかったに違いない。」と結論付け、さらに「この四肢欠損で堕胎することは、絶対に勧めません。」と励ましてもくれました。

私と妻の心は完全に晴れました。

Miaの誕生

お腹の赤ちゃんの四肢欠損がわかってから、産まれるまでに25週間の期間がありましたが、その間、私はそのままバンコクに滞在し、ステファニーはカナダへロー・スクールの勉強のために帰国。ステファニーは初めての妊娠で不安がいっぱいの中、よく一人であの25週間を頑張ってくれていたと思います。出産予定日の2016年1月25日に合わせて、私は3週間の休暇を取り、不安と嬉しさが交錯する中カナダに向かいました。

出産日当日、夜明けと同時に病院へ向かうとき、カナダの旭(あさひ)を感じながら、「今日、私は父親になるんだ。」と考えていました。また、会社の社長から届いた「子供が産まれるときは、人生の絶頂です。楽しんでください。」というLINEのメッセージを思い出し、どんな気持ちなんだろうと想像してもいました。

出産のために手術室に入っていくステファニーを見送り、私は日本から駆けつけてくれた実姉、義母と待合室で一緒に待っていました。「Hikaru Nagahama」とぎこちない発音で私の名前が呼ばれ、分娩室に入ると、下半身麻酔をした妻が分娩台の上に横たわり、医師が今にも子供を取り上げようとしているところでした。「もうすぐ産まれる」と思い、ステファニーと私の目があったとき、赤ちゃんが取り上げられました。

子供が産まれたとき、何とも言えない幸せを感じ、まさにこれが「人生の絶頂」のひとときかと感じたものです。

ステファニーは、生まれたばかりの子供を胸で抱きしめ、「何の心配もいらないよ」と優しい母親の声で語り掛けていました。天から授かった長女に、私たちはこの上ないような幸せを感じました。

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長女の名前を考えるのに、スペイン語、日本語、英語で分かるようにしようと夫婦で話し合っていました。妻が長女を妊娠してから、色々な人と出会いがあり、多くのBlessing(天の恵み)、Joy(喜び)、Happiness(幸せ)を受けてきました。そこで、それら3つの言葉を一つの言葉で表現している、日本語の”幸(さち)”という名前にしたいと思いました。妻も同じ気持ちでしたし、“さち”という発音がスペイン語ではとても心地いいと気に入ってくれたので、”さち(Sachi)”をミドルネームとし、ファーストネームはスペイン語で”私の”を意味する「Mia」にしました。

天への感謝の気持ちと長女への感謝の思いを込めた名前、それが「Mia Sachi=私の祝福」です。

妊娠期間中に抱いていた不安は、Miaが産まれた瞬間から、嘘のようになくなり、「産まれて来てくれてありがとう」という気持ちで満たされました。

ーーー続く。

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ライター

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編集者

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カメラマン

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長濱光(Hikaru Nagahama)
ライター
四肢欠損の長女が生まれたことをきっかけに、世界中の異なる環境の国で四肢欠損を持つ子どもが、より豊かな経験を積み、社会の中でそれぞれの個性を活かしながら活躍できる環境を創ることを人生のライフワークとして活動しています。
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